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「四極の風の会」令和7年度10月活動報告

  • takanoritasaki
  • 3 日前
  • 読了時間: 3分

[開催日] 

10月28日(火)  第51回 京街道・高麗橋から守口宿まで散策を開催

参加者11名

(利光征四郎、湯浅 亮、東方匡輔、小川清一郎、長谷川浩二、鍵本 明、今仁正義、吉村鉄太郎)

(特別参加・佐藤由美、小林由美子、杉本潤子)

   

[コース概要] 

集合・JR大阪駅中央改札口➡高麗橋➡八軒屋 船着場跡➡太閤石垣➡京橋➡のだばし跡➡京橋商店街➡榎並地蔵・野江刑場跡➡関目の七曲り➡昼食➡千林商店街➡木犀の陣屋跡➡守居橋・文禄堤跡➡守口宿

 

[訪問先概要]

京街道とは、大阪から京都へ向かう街道で大坂街道とも呼ばれる。東海道は「日本橋から京都の三条大橋までの53 次」というのが一般的で、この部分が江戸時代のはじめに整備されたが、東海道の延長として大坂に向かう道として53 番目の大津宿の先に、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられ、大阪北浜近くの高麗橋までがゴールとなった。このためこの4宿を足して「東海道57 次」と呼ばれることもあるという。

 

[高麗橋]

広義の京街道は、各地から京都へつながる道を指しますが、一般的には大阪と京都を結ぶ大坂街道(大坂みち)のことを指します。この京街道の起点は、大阪市中央区にある高麗橋です。

[八軒家船着場跡]

この地は、江戸時代には八軒家と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として、さらに古くは「渡辺津」といい紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた。

[豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)]

この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここ(ドーンセンター)に移築し、発見されたままの姿に復元したものです。

[京橋]

京街道の起点にあたり、京都へ通じる橋という意味から名づけられ、その街道は徳川時代を通じて野崎まいりの人々で賑わいました。

[野田橋址]

かつて鯰江川(なまずえがわ)という川が大坂京橋の架かる寝屋川と大川の間にあった。「なまずえ」 は、大坂の陣で、兵の血が川を染めた「生血江(なまぢえ)」から変化した名であるというおどろおどろしい話がある。そこに架かっていたのが野田橋である。

[榎並地蔵]

この前を通る道は京街道で、豊臣秀吉が築いた大坂と京都を結ぶ道でした。地蔵堂内には「者し向右可も今ふく」(橋を右へ、蒲生・今福)と記された道しるべがあり、江戸中期に京街道から今福・蒲生方面へ向かう道標として機能していたことが分かります。

[野江刑場跡]

野江刑場は、大阪に4箇所あった刑場の一つで、千日前、飛田、三軒家と並んでいました。徳川家康が大阪夏の陣で豊臣方の残党を徹底的に処刑した場所としても知られています。

[関目の七曲り]

大坂城が築城された際に、豊臣秀吉が城の防備のために、この付近の道路をくねくねと曲がった道にして、押し寄せる敵の様子が大坂城から見られるようにしたと言われ、“七曲がり”と呼ばれています。

[守居橋]

文禄堤は、文禄3年(1594)に伏見城と大坂を結ぶ最短ルートとして整備された堤防で、現在はそのほとんどが姿を消していますが、守口市の一帯には約700mが残されており、貴重な文化財となっています。

 

今回は、NPO法人高槻市文化財スタッフの会(ボランティア団体)の女性3人が特別参加されました。

京橋商店街の中では朝日放送テレビ「本日はダイアンなり!」の収録中のお笑いコンビのダイアンと出会うハプニングもあり、一段とにぎにぎしく楽しい会になりました。


次回は令和8年3月に開催予定です。 

幹事  鍵本 明(大17回)

 
 
 

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