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「四極の風の会」令和8年度3月活動報告

  • 5 時間前
  • 読了時間: 3分

【開催日】 3月27日(金)  第52回 京街道「守口宿から光善寺まで」散策を開催

参加者10名(利光征四郎、東方匡輔、小川清一郎、今仁正義、吉村鉄太郎、藤野敬三、鍵本 明)(特別会員・佐藤由美、小林由美子、杉本潤子)

【コース概要】 

集合・地下鉄 守口駅➡大塩平八郎ゆかりの書院跡➡守口宿本陣跡➡難宗寺➡盛泉寺➡瓶橋跡➡一里塚跡➡正迎寺➡八坂瓊神社➡佐太樋跡➡佐太渡し場跡➡佐太天神宮➡菅相寺➡来迎寺➡佐太陣屋跡➡茨田樋跡➡茨田堤碑 ➡松ヶ鼻の地蔵尊➡樹齢七百年以上の柿の木➡磋陀神社御旅所➡「親鸞上人、蓮如上人御田地」➡蓮如上人御腰掛石之碑➡光善寺・出口御坊跡➡京阪電車・光善寺駅・解散

【訪問先概要】

[難宗寺] 文明7年(1475)吉崎を退出し、枚方市出口に光善寺を創立した蓮如上人が文明9年(1477)に守口坊として建立したのが始まりと言われ、慶長16年(1611)には本願寺掛所とな、西御坊と呼ばれるようになりました。さらに、この寺の境内には、樹齢約500年、高さ約25m、直径約1.5m、枝張り約15mの大きないちょうの木があり、これは昭和50年代に大阪府の天然記念に、そして昭和55年に市の保存樹木に指定された貴重な樹木であります。

[盛泉寺] この寺は、東本願寺の末寺で、慶長11年(1606)に教如上人が開基したと伝えられ、難宗寺の西御坊に対して東御坊と呼ばれています。「幻の大阪遷都ゆかりの寺」

[一里塚跡・守口宿上見附跡] この一里塚は守口への入り口でもあり、出口でもあった。この付近は、守口宿の「上の見附」にあたり、大名が宿泊したり通過する時は、問屋や庄屋などの宿役人や村役人が、などを着用してこの一里塚まで送迎していました。

[佐太の渡し場石碑] 対岸は下鳥養、現在の鳥飼西です。佐太の渡しは対岸では鳥養(飼)の渡しと呼ばれていました。ここ佐太は、枚方宿と守口宿の間の宿として栄えました。かつて対岸の摂津市鳥飼と守口市佐太の間に、淀川を挟んで渡し船が運航していましたが、道路網の整備に伴う架橋により、他にも淀川で見られた渡し船は次々と姿を消し、佐太の渡しは昭和48年に廃止されました。

[佐太陣屋跡] この佐太地区は京都、大阪間の交通、軍事の要地であったことから、美濃加納藩の永井氏が貞享年間に渚(現枚方市御殿山)から この地に陣屋を移し、摂津、河内の一万二千石を領有支配し、約五千㎡の敷地に屋敷、蔵、牢屋などを次々に整備していきました。 この陣屋は加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入はもちろん加納藩の特産物である提灯、傘等もここにいったん集積し、 大阪の商人に売りさばき、金融、物資の調達など、加納藩の台所の役割を担っていきました。 

[佐太天神宮] 道真公の死後50年の天暦年間(947~957)に、道真公を慕って祠を建てられたのが当社の創建であると伝えられ、室町期には大庭庄の惣社として崇敬されるようになりました。現在の社殿は永井尚政・尚庸父子や淀屋辰五郎等の手厚い保護や支援を受けて整備され、江戸時代初期の重要な建造物と言われています。

[茨田樋之跡の碑]  昔、淀川から農業用水・生活用水を引き込んでいた用水樋門は、淀川左岸の枚方から毛馬までに 8 箇所ありましたが、台風など大水時に堤防決壊の恐れがあるとしてすべて廃止され、その跡が現存しているのは、この「茨田樋跡」だけになっていました。


慶応4年に明治天皇が大阪行幸の途中、守口宿の難宗寺を(宿泊)とされました。

当時のまま残っている御座所、玉座を見学しました。

幹事  鍵本 明(大17回)


 
 
 

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