「四極の風の会」令和8年度5月活動報告
- 10 時間前
- 読了時間: 3分
【開催日】
5月27日(水) 第53回 京街道・御殿山から枚方宿まで散策を開催
【参加者7名】
長谷川浩二、鍵本 明、今仁正義、吉村鉄太郎、大石哲史、辻 次郎、藤野敬三
【コース概要】
京阪電鉄・御殿山駅➡御殿山踏切の里程標➡渚の院跡➡鵲橋➡枚方宿東見附跡➡小野家➡枚方橋跡➡宗左の辻の道標➡常夜燈➡高札場跡➡枚方本陣跡➡「明治天皇御晝餐所」碑➡市立枚方宿鍵屋資料館➡枚方宿西見附跡➡京阪電車・枚方公園駅➡京阪電車・枚方公園駅➡昼食➡解散
【訪問先概要】
[渚の院跡](なぎさのいんあと)
渚の院は惟喬親王(844~97)の別荘であったとされています。惟喬親王は文徳天皇(850~58在位)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ憂さをはらすためしばしば渚の院にきたようです。
『伊勢物語』には親王一行が交野ケ原に遊猟にきたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ歌を詠むばかりであったと記しています。「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」業平この歌は、この時同行した在原業平が「院の桜ことにおもしろし」として詠んだものですが、失意のうちにあって「のどか」でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されます。
[枚方宿東見附]
東見附は、天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵で囲われた松が植えられていました。
「河内名所図会」享和元年(1801)には、淀・伏見方向に向う大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た役人が待ち受ける光景が描かれています。
元文2年(1737)の「岡新町村明細帳」によると、天野川には、長さ17間、幅3間1尺の板橋が架かっていて、岡・岡新町両村が共同管理していましたが、修理・架替の費用は幕府が負担していました。
[小野家]
東海道枚方宿岡新町の小野家は、江戸中期より村年寄と問屋役人を兼ね、村と宿駅の運営に影響力を行使した。当家には、正徳6年(1716)建設の古図と鬼瓦を存するが、現在の建物は幕末期と推定される。本建物は、街道に面した広い間口で、表門口には揚見世(バッタリ床机・揚げ床机とも言う)と下げ戸が現存し、曽って醤油業を兼ねていた町屋の遺構を残している。
[宗左の辻の道標]
東海道と磐船街道の分岐点を示す道標が残されています。ここが京街道と磐船街道とのの追分。
宗佐の辻とは、油屋の角野宗佐の屋敷があったことからそう呼ばれたようで、「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と俗謡にあるように、 遊郭から客が帰るときに遊女がこの宗佐の辻まで見送ったという。
[枚方宿西見附跡]
江戸時代を通じて多くの旅人が枚方宿を通行しましたが、時には外国人の旅行者が、枚方宿のことを記録に残しています。ケンベル、申維翰(シンユハン)、ツンベルク、シーボルト、アーネスト・サトウなどです。大坂・京都間のほぼ半ばにある枚方宿では、休憩・食事をとることが多かったようです。
彼らのうち、枚方宿の様子を詳しく記しているのは、ケンベルとシーボルトです。両人ともドイツ人で、オランダ東インド会社の商館長の江戸参府に医師として随行しました。シーボルトは「枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私に祖国のマインの谷を思い出させるところが多い」と想起しています。
今回は、小雨交じりの中御殿山から枚方宿西見附まで、少し端折りながら昼までのウォーキングとなりました。屋内の市立枚方宿鍵屋資料館では、学芸員に枚方宿、鍵屋の説明をして頂きました。昼食は京阪・枚方駅前の居酒屋で1時間半十分に堪能しました。
次回は10月末の予定です。
幹事 鍵本 明(大17回)







コメント